高円寺の畳の上で

高円寺の畳の上で死にたいのだが、それを叶えるためには、高円寺に住む必要がある。それに向けて努力できるのかどうか、というブログ。

「君の名は」を振り返る。男子供という語は存在し得ない。文化の生産者の椅子とり。

君の名は見て、全然よくなかった、という友人が、

 

「こんな作品があそこまで大ヒットしてしまうというのは

アニメ業界の自殺だ」

 

と言い出したあたりから

だんだんイライラし始めていた

 

その配偶者に件の映画を、「すっごくよかった」と

興奮気味に進めたうちの一人は、

ホカならぬワタクシである

 

自分が好きな作品を貶されたのもそうだが、

 

そのまるで

 

「(アニメや映画や遊びや芸術、表現・表象・文化の一つもわかっちゃいねえ)

女子供に向けて作品つくるようになっちゃあおしめえよ」

 

ということだろ?と感じていたが

それを言ったら最後、

I am a 女子供

と宣言することになり、

つーか女子供とか言ってないじゃないですか

それはあなたの曲解では、

みたいなことになったらもう目も当てられない言い合いではないか

というような不穏さへの恐れから

 

「馬鹿にしてるのかな?」

 

という言葉はワタクシの口をついて出ることはなく

 

そうして真正面からの衝突を避けた感じは

あとを引いて

 

つーか、イライラするじゃおさまんなくて、

思考が今のこういうテンションじゃ書けない系の

「あーもう私という人間はつくづく呪われている

女たちの怨念という名の亡霊に呪われている

この憎悪の深さよ

これに喰われたくはないのだ

ここから離れたいのだ

でもこの亡霊はもう私の真ん中

ドーナツの穴

その外縁に過ぎない私の人格はもうどうやって保てというのか」

的なアイデンティティの危機、という呼称が

全然まったく1mmも、

おおげさと呼べる状況ではないくらいに

陥ってしまっていたのである

 

自宅最寄り駅たる阪急電鉄池田駅について

ダイエーに足を踏み入れ、

自己破壊的衝動に身を委ねるがまま

緑色のプラスチックのかごに

カラダによくなくなくなくなくないものものを放り入れたく、

 

アラポテトとかっぱえびせんとチョコロールケーキとバナナクレープと焼きそばパンとウインナーマヨネーズのパンとイオントップバリューのウイスキーを買って、

財布はほとんど空になり

なけなしの硬貨をはたいて、

新海誠の作品を、TSUTAYAで全借りした

無論、君の名は、を含む

というか、私は公開時に君の名は、を見ており、

それは一年前のことなのである、すでに。

一年前!

 

一年前のワタシといえば、

明らかに私がかけては要らなかった言葉の数々は

よもや単に無神経や無道徳や、というよりは

誤配達

私ではない誰かがもらうべきギフトではなかったのではないか

ここにいるのは、私ではない誰か、仮にA、

ではないか

であるとすれば、

開封して、なんじゃこりゃあ。。。!!

となっていたプレゼントは、折り目正しく開封し直して

我が内なる無装飾の極み的な倉庫に保管して要るのであり、

今からでも、

実はカクカクしかじか、こちらのお荷物お預かりしておりました

長らく永く永遠に

こちらに保管しているわけにも参りませんので

お届けに参りましたあ.... !!!

とすれば、

 

はっぴー

 

だ!

 

という考えに執着していた頃なのである。

 

そういうワタクシであるから、

「君の名は」的な

運命論的入れ替わりストーリーは

どストライクの中の中

待ってましたのホームラン

くるよくるよ、な

嬉しさだったのでありました

 

あーあ

私も運命的に異性と入れ替わっちゃいわ

私が君で君が私で

って、

無限の選択肢を廃棄し、

考える余地もなく確かに僕/私にとってオンリーワン

なんていいよね

 

かくなる上は

天災で量りきれないくらいに消えていったものを

僕/私で

シナリオ書き換えて、消えなかったことにしたいわ

そうしてその救世の記憶も忘れたいわ

でも君の名は忘れたくないわ

でもだけど忘れている

忘れているけど、

繋がっている

 

 

みたいな。

 

どうやったって美しくない新宿の街すらも

輝く公式の中でなら

そういうことも起こるでしょう

 

というイルージョン

 

アラポテトとバナナクレープと焼きそばパンとウインナーマヨネーズのパンとかっぱえびせん袋の3分の1くらい

病的な雰囲気で腹に詰め込んだ後みた

「君の名は」

について、

今この時に私の書けることの全ては以上となります。

 

先生の白い嘘(8)読了

一巻からドキドキしながら読んでいた作品が完結した。

以下ネタバレ含みます。

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性犯罪の被害にあって、自分自身の体を奪われたと感じた美鈴が、
男子高校生との純愛を通して、暴力と自己に対峙していく。

美鈴は被害者でありながら、
そのような被害にあったのは自分に落ち度があったからだと考えており、
「罪」の意識が深く、自分に幸せになる権利はないと考えていた。

作者は美鈴が高校の国語教師という設定を駆使して、
夏目漱石『こころ』を作中でオーバーラップさせてくる。
罪悪感が内側から人間を蝕んでいきついには自殺するというこの物語にノーを突きつけるように、
美鈴は、愛を見つけ、幸せになることを選びとっていく。
性行為自体を忌まわしいものと捉えていたが、
それが、加害者の妻であり美鈴の友人である美奈子の妊娠をきっかけに、
生命を生じさせる行為としてその神秘性を信じることができるようになる。

自分を奪われていたと感じ、にもかかわらずその怒りを男にではなく自分に向け、
女である自分を憎んでいた美鈴は、
身体の発育の悩みをサポートする保健の教師となることを選び、
元教え子の新妻とも健全な恋人関係を築く。

一方の、加害者男性であった澤藤は、
自分自身が、広い意味での被虐待児であった過去があり、
そのことが彼を他者への暴力に駆り立てていることが描かれている。
父親から暴力を受けながらも怒りを表さず耐え忍ぶ母親を見ていた彼は、
そこから、女を男と同等の人間としてではなく
得体のわからない何かとしてしか捉えられない。
奪う、というのが澤藤の女性への唯一の関わり方だったが、
「奪われているのではない、愛されている」と捉え直す女たちに、
さらなる混乱に追いやられていく。

登場人物一人一人に論理があり、
性と暴力をとても生々しく描いていると思う。
レイプをこれほど様々な立場の人間の心理的葛藤を交えて描いた作品を
初めて読んだ。時代の先端にある、すごい作品だと思う。
「それでも愛を信じよ、幸せを求め真摯に行動せよ、さすれば救われん」
と信じられそうになる物語だった。

ギター講師瀧澤氏の音楽を志す人へのメッセージ動画を見た

これもじっくり2回見た。

 

音楽で食っていこう、なんて

そんなことは「やめてほしい」という趣旨。

自分を削って訴えている。

綱渡りをたった一人で十数年間しているようなものだから、と。

 

それでも自分は自分に自信がある。

人の10倍努力してる。

何かを実現するために必要な要素を並べ、

本当にそれが必要だと思ったら、全力でやる。

18時間ぶっ通しとかでやる。

という。

僕たちがやりました最終回を見た

じっくり2回見た。

苦しくって昨日丸一日塞ぎ込んでいた。

4人で犯した罪だったが、

犯行から自首までの期間で、

その意味が、それぞれで変わって行っていた。

 

罪の変質。

 

主人公は、「誰でもない人々」を殺したことから

「親友」を殺したことに変わってしまった。

だから、捕まって裁かれて服役しても、

自分で自分を赦すことはずっとできない。

 

罪を償うことを父親になるための試練と捉え、遺族への謝罪を浄化として捉え実行したイサミ。

金を湯水のように使ってキャバクラ遊びを覚えたマル。

父をある意味では乗り越えたパイセン。

 

人を殺す、という罪が一様に人の心の影を落とすのではない。

自分が赦せないことを自分がしたのだ、という意識がそうするのだ。

誰が赦したとしても、この自分が赦せないのだ、と

常に有罪を言い渡す瞬間の法廷が内面化され繰り返され続ける。

 

哀しい気持ちに理由はあるのか

もしも本当に、書くことだけが私を救うのであれば、

どうしたって書く他ない。

それ以外の選択肢がない。

 

失われているのは、若さばかりではない。

損なわれているのは、僕だけではない。

 

苦しさ。

 

これをほどきたい。